熱海七湯特集

 日本三大温泉の一つと言われている熱海温泉は、多くの源泉が昔からあり、中でも熱海七湯は、熱海の名湯として大正時代までは残存していました。平成9年に、作り変えられて新しくなっていて、入浴はできませんが、その当時の温泉施設を復元し、七湯それぞれの由来がかかれた看板があり、それぞれのその歴史にふれることができるようになっているそうです。

 世界の三大間欠泉の一つに数えられていた大湯間欠泉。大湯の噴出は、大正時代前半までは、地面が揺れるくらいの多量の熱湯を吹き上げる自噴泉であったそうですが、関東大震災以降、噴出が弱くなり、昭和37年に人口噴出する間欠泉に再整備されて、市の文化財として保存されている。近くには、湯の神を祭る湯前神社があります。

 河原湯は、道もなく石のごろごろした河原で、温泉が絶えず豊富に湧き出ていて、熱海村の村民らが自由に入浴ができた唯一の入浴場であったそうです。小田原城主の稲葉美濃守が村民のために浴室をつくり、その屋根を瓦葺であったため瓦湯とも言い伝えられているそうです。佐治郎の湯は、佐治郎という人の邸内にあった温泉であったことがその名の由来となったそうです。明治時代の頃は上杉助七という人物の邸内にあったり、のちに新かど旅館の所有になったので新かどの湯とも呼ばれていたそうです。眼病に効くといわれていたので、目の湯という別名もあります。

 清左衛門の湯は、農民の清左衛門という人が馬を走らせて、湯壷に落ちて焼け死んでしまったことから、この名前が付いたと言われていて、明治時代までこの源泉は、一日中湧き出ていたそうです。その源泉の前で清左衛門の名を呼ぶと、声の大きさに比例して温泉が湧き出るという不思議な現象もみられたそうです。

 風呂の湯・水の湯は、坂町高砂の庭から湧いていたもので、外傷に効くと言われていたようです。また、湯気の上騰が盛んだった事を利用して、饅頭を蒸したりお酒を温めて販売を行っていたそうです。その風呂の湯のとなりに湧いていた塩分のない温度も低い温泉があり、熱海史誌には淡白無味常水を温めるもののごとしとし、故に水の湯と名付くと記されていたことから、水の湯と名付けられたそうです。

 沢口弥左衛門、藤井紋次郎、米倉三左衛門の庭の湯を平左衛門の湯と称したが、土地の人は小沢町にあったことから小沢の湯と呼び、併称となっている。清左衛門の湯と同じで、人が大きな声で呼べば、大きく湧き、小さな声で呼ぶと小さく湧き出したそうです。

 野中の湯は、他の七湯とは離れた場所にあり、野中山の麓にあたり、地名が野中であることからその名が付いたと言われている。昔は泥の中に湯が噴いて杖で突けば湧き出したそうです。湧出地が浅かった為、湯をためる湯枡を設けなかったようです。このあたりの土は丹(赤色の土)に似ていたので、壁を塗る材料に用いられていたようです。

 熱海に別荘を構えたら、是非、熱海七湯を全て巡ることも、熱海温泉の歴史を知ることができて、よりいっそう、熱海という街を好きになることでしょう。

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